世界は闇だった。
 生まれた時から光を知らず、私と世界を繋ぐのは残った感覚。
「がなり立てる声」「鼻を衝く臭い」「吐き気を催す残飯の味」「事あるごとにぶたれる痛み」だけだった。
 この世は混じりけなしにくそったれだ。――背も小さく、盲目な女など。
荒廃前の世界ですら生きづらいだろうに、こんな世界じゃどうしたって死ぬしかない。
 夢の中ですら安心できない。暴行がリフレインする。
死ぬことでしか幸せになれないのか。
「そんなことはない。さぁ、『眼』を開けてごらん。悪夢の中で微睡む時間は終わりだ」
空腹と暴行で憔悴した意識の中で、1人の魔術師がそう言った。
 ジェームズ・キャロル。病魔に侵された心優しき人だった。


 結界が解けたことを『視て』、グレイシーは1人杖をつきながら山道を歩く。
「ふん、揃いもそろって間抜けな連中だネ」
 被害が出てから数週間。やっとこ部隊を送り込んできた。後続のあの三人の力は大したものだったが、組織としては粗末な仕事ぶりだ。
 グレイシーは霊感と五感を集中させてあたりの気配を探る。隠密術に長けてはいるもののここは奴らのテリトリーだ。慎重に逃げなければならない。
 グレイシーは彼の杖を強く握りしめて足取りを進める。
「ああ、そうそう。アナタは後片付けね。よろしくね用務員さん」
 ふと近辺で声がした。
 経験からくる条件反射が、即座に体を声の方角へ向かせた。肩のライフル銃を勢いのまま構え、装填された呪的加工徹甲弾を一発撃つ。
 数キロ先の砂粒まで的確に透視する千里眼と戦地で鍛え上げた狙撃術。それらが合わさったカウンターは敵の脳漿を確実に散らせるはず――そのはずだった。敵が予知や予測さえされていなければ。
 弾丸は不自然に風にあおられ、対象から紙一重逸れた。
「あら、案外やるのねぇ。逃げ足だけじゃなかったってワケ」
「……ハン、アンタらこそ術を磨くより指揮系統を見直した方がいいんじゃねぇか。先遣部隊のトロさったら無かったぜアリャあよぉ」
「痛いとこつくわねー。まぁそれについては修験道課に申し出て頂戴な。私たちは知的労働専門なのよね」
 グレイシーは霊体を介した『眼』で言葉の主を視る。木々の合間から1人の男が現れた。線が細く、なにやら日本の民族衣装のようなものを身に纏っている。あれはたしか「オンミョードー」とかいう魔術の衣装だったか。
 あの三人のガキどもにも術を使うやつがいたが、やや分が悪い。グレイシーは内心で舌打ちをした。
「ま、そんなとこだから――バベルの塔の子たちが何の用かしら。太平洋を渡ってまでこんな小国に」
「……勘違いすんじゃねェよ。アタシらはアタシらの信念でもって動いてる。他の奴は関係ねぇ。目的のためならどこへだって行く」
 グレイシーはその白濁した眼で陰陽師の男を見据えた。
「アタシの愛した男は満足して死んだ。今度はアタシの番だ。眼を覆いたくなるような世界でも、死ぬまで歩き続けなきゃならん。人助けをしなきゃ生きてけねぇ。まだまだ満ち足りるにゃ早い」
「……そう、弔いかなんかのつもり?」
「いんや、違うね」
 グレイシーは杖を背中に差してライフル銃を構える。
「名前負けはだせぇだろ」

 女は神の恵みを満足に与えられなかった。
  しかし愛した男は、そんな女に神の恵み(グレイシー)と名付けた。
 助けられた日からもう夢は見ていない。
 今はただ暗闇で覆われた荒廃世界を、ひたすらに生きていくだけだ。